エッセイは、踊る

 こんにちは、斉藤です。
「エッセイ執筆の苦手意識をなくそう」キャンペーン中です。今日も男女構わずすなるエッセイなるものを私もしてみむとてするなり。SHINGO☆西成

 コラムニストとエッセイストの違いについて、『連続性』がある。
 コラムは「○○が××だから△△だ」という、根拠となる「~だから」が入っているため、それそのもので完結しがちだ。
 そもそもがコラム(column)とは「新聞などの囲い枠」の意味を持つ。
 誌面の穴埋めの性質を強く持つため、エッセイのような「私はこう思った、それはなぜなら~」と長く続く記事よりも、簡潔な「○○は××だから△△なのではないだろうか」で短く終われる方がなじむ……のかもしれない。
 自信がないのは、どこかでそう聞きかじったのかもしれないし、俺が勝手にそう思っているからかもしれないからだ。
 俺はアニメと現実の区別がつくオタクだが、知識と現実の区別はつかないオタクなのだ。

 無論、短いエッセイはある。天声人語などはコラムと銘打ってはいるが私の分類上は短いエッセイである。
 ならばなぜ天声人語は短いエッセイ形式なのか、といえば答えは簡単、新聞含むメディアは「中立を保つこと」を便宜上目指しているからである。
 報道番組などは「中立を保つために」コメンテーターという外部の人間に偏った意見を言わせている。番組として世論をどう煽っていきたいかの方向性を決めながらも「飽くまで会社の見解ではなくコメンテーターの見解ですよ」という体を作り出している(それが形骸化しているというのは置いといて)。だから的外れなコメンテーターもあれはあれで番組の意向に従うプロフェッショナルなのだ。
 天声人語がコラム的、つまり「○○が××だから△△だ」という理論的な読み物だったならば、中立的な物言いは難しいだろう。
 また、理論立てて説明したら偏ったり誤ったりする。購読者は数万人じゃきかないほどいるから、クレームの量もすさまじい。
 だったらエッセイ的に「スシローのソースを舐めたことが話題になっているが、私の若い頃にはこういうことがあって~」みたいな導入の、飽くまで「私の思い出・体験談・思ったことですよ」という風な書き方の方が新聞全体にとって“楽”なのだ。
(無論、社外からのコラムニストを雇っている場合はその限りではない)


 さて、正しい用法の閑話休題。
『連続性』の話に戻ろう。

 これは(私はあまり彼が好みではないが)2ch創設者ひろゆき氏が著書で、「理系の話はすぐに終わる、だって『データがあるから○○じゃないか、他に正しいエビデンスがあるなら出してください』で終わるから」と言っている。
 つまりは理屈的な組み立ての話(=コラム)はすぐ話が終わる。いわんや休題する前の閑話をや。

 一方で、反対の「エッセイ」は自分の思った・感じたことを書く。
 例えば、さくらももこのエッセイでは「祖父が死んだ時のマヌケな顔に耐えきれず台所で姉と一緒に笑っていた」という描写がある。論理がなく、「祖父の死」という重いテーマだから重く書かなければ、という気負いもない。『実際にあって感じたこと』を書いている。

 これについて、雑談を重ねたくならないだろうか。
「私が祖父を亡くした時はそんな風に思わなかった」とか「わかる、おじいちゃんの死ってシュールだよね」とか「アルコールばかり飲む親父だったからよく燃えたったわ」とか、雑談が引き出される。その雑談をもし文章に落とし込んだら、それは『エッセイ』となる。

 エッセイは踊るのだ。
 くるくると方向を変え、語り部を変えて雑談を引き起こす。
 それがよく起きているのがTwitterなどのSNSで、一つの感想に数百のリプライがつき、そこにまた数十のリプライがつく。雑談が踊る。

 2ch創設者ひろゆき氏(やはり好きじゃないが)は書籍の中で「『誰もが一言だけ言いたい』と思ってサービスを作る」という話をしていた。
 事実、彼が立ち上げた掲示板の2chも、彼が所属した頃に追加されたニコニコ動画のコメント欄も、「誰もが一言話せる」状態を作り出せていて、新たなサービスなどがなくても“人”が勝手にコンテンツになってくれる。
 エッセイには人が集まる魅力がある。それはコラムみたいに論理的の帰結に影響なく「誰もが一言だけ言える」からではないだろうか。


【後記】
 エッセイについてのエッセイを書く、というのは「書くことがないことを書く」みたいな小学生の作文みたいで汗顔の至りではあるが、エッセイと向き合うためには必要な汗だ。天才ではない一般なる朕(尊大)は汗をかきかき頑張るしかないのである。

 エッセイは踊る。どこにたどり着くわけでもないが、踊っている本人は楽しい。たまに踊る相手とシナジーが生まれる。それを期待している自分もいる。
 グラップラー刃牙のコミックスの作者コメントに「マンガとは何か?」という問いに「駄菓子、もしくはジェットコースター」曰く「必須な栄養があるわけでも目的地に着くわけでもないが、乗っている間は楽しい」と答えている。絵の表現との違いこそあれ、エッセイとはこういうものかもしれない。

 さて、私もnoteのエッセイに影響されてこのページを書いている。
 それにしては、私の言いたい「一言」はだいぶ長いようだ(2,180字も話してしまった)。

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