車道に「あぶない!こどもがいるよ」と書いてある立て札を見かけた。
車で通る時に「こっちはノーダメージだから子どもに言え」と思っている。わりといつも。
さて、思考のベクトルの話をしてもいいですか。
私の思考は、基本的にたくさんのベクトル矢印がヤマアラシのように伸びている。体系はアザラシなのに。やかましいわ。
例えば、「高校生が同級生をカッターで切りつけた」というニュースを見た時、大体の人は「けしからん!牢屋にぶち込め!」くらいのことを思うんだろうけど、実際は「犯人は周りから壮絶なイジメを受けていて、今回初めてやり返したのだ」と繋がることもある。
いやだからって許されるわけではないんだけど、見え方はだいぶ違う。だから私はあらゆる情報に対して「現時点ですべてを判断できない」と思っている。
昔、女性のカバンにマヨネーズをかけた男が逮捕されたことがあった。
調べると、男には前科があって、前回は女性の衣服に体液をかけて裁かれていた。察するに、体液をかけることの代替としてマヨをかけたのだと思う(違うかもしれないが)。想定外のマヨの使い方に香取ママも天国から驚いているだろう。いや香取ママは死んでないが。
彼の中でどのような帰結があって「マヨならいいだろ!」と思ったのかは知らないが、ともあれ、「いきなりマヨをぶちまける男」よりは「歪んだ性衝動の一環として白濁液をかける痴漢」と考えると理解ができなくもない。結局、私は理解がしたいのだ。どんな極悪人だろうと私と地続きだと信じたいのだ。
一方、ベクトルが一方向に張り出ている人は、ツイートなどを見て「けしからん!」と思うなどしてまんまと思考を乗せられてしまっている。
ここでアドラー心理学なんかは「義憤を感じたいからわざわざそういうツイートを探しているのだ」なーんて残酷なことを言うかもしれないが、私はそこまで言わない。週刊少年ジャンプよりも安くて快感な「義憤」なんてのがTwitterにはごろごろ落ちていて、無料主義の坊っちゃん嬢ちゃんおっちゃん年増女が好き好んで義憤に猛っているなんてそーんなそんな。私の口からはとてもとても。ティモテ ティモテ。
正しく閑話休題。
ほとんどの人はベクトルが一方向に向いていて、それが「普通の人」だ。凶悪犯のニュースを見れば「同じ目に遭わせてやればいい」と思うのが普通だし、ロリコンを見れば気持ち悪いと思うだろうが、私は「環境次第だろう」と思う。
私はスシローの醤油差しを舐める行為は面白くないと思うけれども、それは「現環境において」と注意書きが必要だ。
私がそういう仲間とつるんでいたら、それが笑いになるのかもしれない。
私と同年代の男性が吉野家の紅ショウガを直で食べて逮捕されていたが、「仲間から面白いことやって、と言われてやったらめっちゃウケた」と話していたので、私にもそういう世界線があったのかもしれない。言っちゃなんだけど、それはそれでおもしろくて良い人生だと思う。彼は逮捕されてしまったけれど、半年後にはヤンチャエピソードとして酒の席で肴にしているだろう。
「俺も犯人になっていたのかもしれない」と思うと、彼らを対岸の火事のように見ることができない。これはベクトルハリネズミ人間にはままあることだ。
さて、前言を翻すようだけど、一方で、「俺も犯人になっていたかもしれない」というのは、大きな驕りでもある。
(こうやって前言を翻すのも、ベクトルがハリネズミだからだ。自分の発言にさえ「いや、待てよ」が挟まるから)
西尾維新先生の後書きだったかで、「俺も天才になっていたかもしれない、と思うのと同じくらい、俺も犯人のようになっていたのかも、と思うのは驕りだ」というようなことが書いていた。要するに「悪には悪の才能と努力があって、それを持っていないのに自分にもあんな世界線があったのかも、と思うことが厚かましい」というような意味だったとぼんやり覚えている。違ったらごめんなさい。
私には邪悪の才能がない。人の感情を理解しようとするということは、つまり相手の痛みに共感してしまうからだ。例えば私が相手にナイフを刺したら、手から伝わる感触で彼の痛みを知ろうとするだろう。赤黒い肉の裂け目を見て、皮を剥いた人間のグロテスクさにめまいがするだろう。
だから「犯人のようになっていたかも」はお門違いなのかもしれない。
いやもっとも、「あるいは犯人ってのはいつも私のような人間がなるのかもしれないな」なんて、また、翻して考えている自分がいる。きりがない。
【後記】
少しエッセイ的なものを書いている。
というのも、前からエッセイを書きたかったのだが、書き方が難しく完結していない記事が50記事ほどあり、せっかくなので完結まで書いている、という次第だ。
『エッセイ』を手中に収めるのは難しいというか、途方もない労力がかかることがわかった。小学生の頃から小説を書いている私が書けないわけがなかろう、と思っていたが、しっかり労力を払って書いている。
コラムには型があるが、エッセイは無形だ。
しかもその無形さゆえに弾力がある。自分の中に取り込むとき少し抵抗があって、少し深く手を入れればスムーズに染みていく。
私の文章は頑張って「無形」に見えるようにしているが、その実感情論を理屈で固めているような不安定さがある。
しかしそれでも私は私の書いた文章を愛そう。難しい話抜きでも結構好きなんだよね、俺の文章。



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